otonatsube’s diary

定年まで後数年、好きな音楽の話を中心に、日々の暮らしを綴っています

自閉症の弟のこと Vol 1

私の弟は重度の自閉症である。

実年齢は今年、50歳を迎えるが、知能の方は3、4歳ぐらいと言われている。

どんな感じかというと、お金の勘定が出来ないので、一人で買い物が出来ない。

お風呂で自分の頭や体を自発的に洗えない。

言葉は喋るが、会話のキャッチボールが難しい。

でも、身体は健康で目立った病気はないし、癲癇もない。

自閉症ダウン症のように身体的特徴がないので、一見すると普通に見える。

弟が生まれても、すぐには気づかず、3歳ぐらいになっても、言葉を発するのが遅かったので、母が小児科に相談に行って発覚した。

自閉症だと診断されたとき、当時はまだ、発達障害について知られていなかったし、世間の偏見などもあって、母は弟を道連れに心中しようと思ったそうだ。

弟の首に手をかけて、これからまさに力を入れて絞めようとしたときに、今まで泣いていた弟がなぜか、にっこり母に微笑んでみせたそうだ。

その笑顔を見てはっと我に返り、「自分はなんて罪深いことを考えていたんだろう」と思い直し、それから母は、全力で子育てに奮闘した。

弟は言語教室に通いながら、発達障害を持つ子供たちの幼稚園に行き、小学校の特殊学級に進んだ。

小学校は養護学校みたいに通学バスがないため、三輪車の後ろに弟を乗せ、それを母が漕いで3キロの道のりを毎日通っていた。

雨の日も、雪の日も。

母には持病の喘息があったため、そのうちバイクで通うようになったが、トラックに巻き込まれる事故に遭い、二人とも命に別条はなかったけれど、母は左右両方の鎖骨を折る大怪我を負った。

それにも負けずに、今度は40歳代で車の教習所に通って、免許を取り、車の運転もした。

こうして振り返ってみると、母の奮闘なくしては弟の成長はなかっただろうし、家族の幸せもなかっただろうと思う。

8年前に他界してしまったけれど、母には今でも感謝の気持ちしかない。

実家では弟のことを世間的に隠すようなことはしなかった。

私の小学校4年の授業参観のときに、母は弟の預け先がなかったので、弟を連れて来ていた。

最初のうちは弟も教室の後ろの方で、おとなしくしていたが、そのうちに飽きてきて、教室内をチョロチョロと動き回るようになってしまった。

先生や他の保護者によっては、迷惑だと言われかねない事態だが、幸運にも、担当の先生は温かく受け入れてくれて、同じクラスの男子生徒たちは放課後に弟の遊び相手までしてくれたのである。

今こうして書いていても、すべてに感謝の気持ちが湧いてくる。

こういう環境のおかげもあって、私も弟のことは周りの人に隠さずに普通に話す。

夫と出会って付き合い始めた頃に、弟のことを告白するのは緊張したけれど、それで別れる仲ならそれまでだと思って話してみたら、偏見を持たずにありのままを受け入れてくれて、有り難いことに、弟を一緒に旅行にまで連れて行ってくれる。

本当に、なんて私は幸せ者なんだろう。

弟は小学校を卒業した後、養護学校の高等部まで進学し、その後は実家の近くの施設に入所して現在に至っている。

両親は他界したが、私が弟の成年後見人となり、月に2回ほど弟を外出させて、一緒に食事をしたり、年末年始には我が家に泊まる。

最近はコロナの影響もあって、外食はままならないが、今年の2月には一緒に江の島に一泊旅行もした。

弟はこの月2回の外出を、とても楽しみにしているようだ。