ソローの「ウォールデン・森の生活」を読んで家について考える
以前ブログで、ヘンリー・D・ソローの「ウォールデン・森の生活」を図書館で借りて読んでいると書きましたが、まだ、チマチマと読んでおります。
読書好きの人からすると、まだ読み終わってないのかと思われるかもしれませんが、何せ激務の肉体労働者なもんですから、読んでいるうちに寝落ちすることもしばしばです。
読もうと思ったきっかけは、あるYouTuber のこの本の書評を見て、生きていく上で、幸せについて深く考えてみたかったからです。
実は定年まで4年、まだ働くことにしている自分が、今これを読むことによって、「今すぐ仕事辞めた~い」ってなりそうで、ちょっと怖かったですが。
ソローはハーバード大学を卒業した後、家業の鉛筆製造業、教師、測量の仕事などに従事しますが、生涯定職に就かず、効率性の追求や物質主義を批判し、28歳の時に、マサチューセッツ州コンコードにあるウォールデン池の近くの森に丸太小屋を自分で建てて自給自足の生活を2年2か月送ります。
この本は、その時に執筆されました。
物事の多岐にわたって書かれているのですが、今日は家について感じたことを書きます。
本の中でインディアンのウィグアムという住居について触れていて、暖かく樹皮で丁寧にしっかりと被ってあって、美しい模様を描いたゴザが敷かれ、同じように美しいゴザで内張りされ、多数の調度品が備えられていたと記されています。
また、天井には通気を調節できる換気口が設けられ、家族が住むのに十分な広さがあり、一日か二日で建てることが出来て、畳んで撤去し、再び建てるにも数時間あれば十分とあります。
未開の人には心地よいウィグアムがあるのに、現代の文明化した社会では、全体の半ばを超える家族が住居を持てない、という現実を指摘しています。
今から160年ほど前のアメリカで書かれた本ですが、現代の日本でも同じことが言えるのではないでしょうか。
資本主義社会の限界が近づいてきて、多くの若者が非正規雇用で働かなければならず、家を持とうにも持てない。
また、夫婦共働きで理想の家を35年ローンで買い、頑張って働いていたのに、夫婦のどちらかがリストラに遭い、計画が狂う、子供の大学の学費が払えない、など。
借家の場合でも、毎月の家賃は大きな支出であることが多いと思います。
家を手に入れることができたとしても、日本では経年によって家の価値は下がってしまい、ずっと今の家に生涯住み続けたいと思っていても、病気で動けなくなったら住むことは難しいです。
最近、空き家が目立つようになってきました。
法律では所有権が云々言われていますけれど、誰も住んでいなくて雑草もボーボー生えっぱなしなのに、何が所有権でしょう。
そんな状況だったら、誰かに住んでもらった方がよっぽど、家だって喜ぶでしょう。
現代の私たちに、インディアンのような知恵があったら、どんなに幸せだろう。
もし津波で家が流されたとしても、家族さえ無事でいたら、お金なんてそんなになくても、一日か二日で家が建てられる。
今の日本社会では、家を持つことに、あまりにも負荷がかかり過ぎている。
と、まぁ私がブログでホザいたところで、何も変えられないか。
でも、コロナで人々の意識が変わっていくんじゃないかという予感はあります。
話が逸れますが、うちの夫が生まれた家は、北海道の開拓で、義父が建てたものだったそうです。
家の隙間から雪が入ってきて、朝起きると顔の上に雪が積もっていたそうです。
引っ越して二番目に住んだ家は二階建てで、一階が十分広くて、二階は作ってあるけれど、二階に通じる階段がない、というユニークな家です。
五右衛門風呂の湯を沸かすのは、長男の夫の役目だったそうです。
極寒の地なので苦労も多かったようなのですが、話を聞いていると、まさにリアル「北の国から」です。
北海道の父の偉大さを感じます。
北海道の話はまた、別の機会で書きます。